2022年9月2日
今は香美市だけれども昔は土佐山田町、香北町、物部村だったのよねぇ。。
じゃあ、もっと昔はどんなんやったん?
まぁ以前から歴史を辿るのん好きな傾向があるのですが、ザックリとこの三町村合併後の香美市という地域の気になる歴史的なキーワードをチョイチョイと書かせて頂きます。
かなり偏った情報につき、嘘の可能性もあります。
書いている本人はホンマやと思って書いています。。。
紀元前1000年から300年のいわゆる弥生時代。
一番古い事で分かっているのが、この頃に住んでいたとされる痕跡が龍河洞で見つかっている事です。
色々と説はございますが、弥生人とは大陸から渡ってきた民族で主に穀物を育てて生活する民です。
それまでの縄文人は狩りや木の実などの採取によって生活していました。
ですので一定の地域に定住するのでは無く、自分たちの縄張りを転々として生活していました。
恐らくですがこの弥生人と共に日本へ牛や豚などの家畜も一緒に流入したと思われます。
その起源は古く11000年前のコーカサス地方であると考えられる。
農耕が世界各地の同じ緯度で同時多発的に始まったらしいのだが、他の地域は麦のような採取後も保存の効くような物ではなかった。
生産効率も悪く、他の地域はそれほど繁栄しなかった。
更にこの地域には牛、豚、ヤギなどの家畜もいた事から爆発的な発展を迎えた。
コーカサスという場所はアラビヤ半島の付け根あたりにある。
耕作地が広がる事によって土地による争い事も増えたそうで、権力争いに負けた氏族は新天地を求め同じ緯度に流出し、長い年月をかけてこの日本へも彼らはやってきた。
これにより西日本から徐々に渡来人である弥生人の勢力が広がって行った。
特に中国地方や四国地方には多くの民が生息していたようです。
その証となるのが龍河洞に残る弥生人の痕跡。
どうでも良い無駄な余談ですが、コーカサスに住んでいたのはヘブライ人です。
いわゆる現代のユダヤ人ですね。
日本人のDNAにはユダヤ人と繋がる要素がDNAの中にある事がわかったそうです。
だからなのか徳島にある剣山には、ユダヤ教の宣教師なんかもわざわざきていたりします。。。。なんのため?
なんか都市伝説みたいな話になってきたのでこの辺でやめときます。
とにかく龍河洞には弥生人の痕跡が残っていました。
参考資料→農業の起源
こんな人が住んどったんやと
次に恐らく登場するのは物部氏。
なんと言っても香美市の真ん中をズドンと流れるのは、物部川(ものべ川)「もののべ」とは呼ばないが字は全く同じだ。
お隣の南国市には物部という地区もある。
ネットで色々調べていても面白いことが書いてある。
古書によると物部氏はその昔、九州から伊勢に至る全国に散らばっているそうです。
これって上の項で書いた弥生人の動きとリンクしていますね。
高知の物部氏もかなり古くから住んでいたようです。
そして最終的な拠点となったのは筆者の地元である大阪の河内の地。
とても縁を感じます。
その後物部氏の守谷は蘇我馬子によって滅ぼされてしまいました。
そしてまた無駄な話ですが、この事件を境に物部氏の勢力は落ちていったようです。
これにより物部をもじって「もののけ」や「除け者」と言った差別的な言葉に繋がっているようです。
参考資料→ひまわり乳業のコラム
物部守屋
続いては時代は一気に飛びますが、「土佐打刃物」です。
一般的には400年の歴史と言われています。
今から400年前。。。江戸時代ですね。
長宗我部から山内家へと変わっていますね。
恐らくこの頃に鍛冶屋が増え土佐打刃物というブランドが確立されたのでしょうか?
それよりも更に昔の1300年頃に奈良からやってきった五郎左衛門吉光が、刀鍛冶として鎌倉時代から室町時代後期まで繁栄したそうです。
恐らくこれがベースとなり、山林の多いこの土地では林業が盛んであった為刀鍛冶から林業用の道具を作る鍛冶屋が増えたのでしょう。
そして江戸時代に入ってからはそれ以外にも農業用の道具を専門に作る鍛冶屋も現れ、土佐打刃物の特徴として何々専門の刃物の産地では無く、多種多様の鍛冶屋が存在する日本でも珍しい地域となります。
しかも、関や堺のような分業制ではなく、自由鍛造と言って鍛造(鉄を燃やしてトンカチで叩いて鍛え、おおよその刃物の形を作る工程)から、研ぎから仕上げまでの工程の全てを一つの鍛冶屋でまかなう。
これも特徴の一つであります。
最近では鍛冶屋の学校も作り行進育成にもチカラを入れています。
参考資料→土佐打刃物屋のサイト
某土佐打刃物の鍛冶屋さん
香美市の物部町は古く平家の落人伝説や民間信仰である「いざなぎ流」があり、そのことについて触れようと思ったのですが、なかなかに難しく短い文章でまとめ上げて、なるほどぉ〜となるようにするのは不可能だと気がつき断念する事にしました。
平家の落人伝説は日本の各地にあり、どこからどこまでが真実でどこからどこまでが嘘なのか分からない。
香北町にある轟の滝には先日紹介した玉織姫伝説があり、それも平家の落人絡みの話ですし。。。
なんや難しいにゃー。。。。
ただ言えるのは物部町の奥の集落はV字型の渓谷の下部では無く、上部である尾根に近いところに集落を作っており、霧が多くマチュピチュのようなラピュタのような不思議ゾーンがある。
これは平家の落人が隠れるにはもってこいな場所だなとは思いました。
そしてからの「いざなぎ流」
一体いつの頃からこのような民間信仰が始まったんだろうと調べましたが、それは民間のモノ、日本の中枢部である主権者や、宗教関連のモノであれば紙に書かれた資料が残っているが、民間のしかも伝承による信仰になるとほぼ残っていないようで、専門家の資料を見てもWikipediaを見ても出自については曖昧というか書かれていない。
諸星大二郎さんあたりが大好物な匂いがします。
水木しげるさんは一度「いざなぎ流」で漫画を描いていたそうです。
大阪の先輩に教えてもらいました。
宮崎駿さんの「千と千尋の神隠し」に出てきたハクを追いかける紙の人型も「いざなぎ流」では使用し御幣(ごへい)と呼ばれています。
知りたいけれども難しい。。。。
参考資料→いざなぎ流とはなにか
佐藤健寿 奇界/世界にて撮影
香美市、南国市、香南市は長宗我部元親の頃の中心地でもあったので、平野部は栄えて中山間地域や山間地域にもそこそこ人は住んでいたようですね。
山内家に代わってからは今の高知市が中心となり、政治の拠点は移りましたが、農業は盛んでニラ、生姜などは生産量がずば抜けて多いです。
お米作りも盛んです。
ゆずの生産や子供の繁栄を願って鯉のぼりと共にあげられるフラフなどは昭和に入ってからの産業になります。
だから書きませんよっていうのではないのですが、江戸時代以前から続いているモノや何かしらの由来を知りたかった事柄を中心に調べて描いてみました。
今回のは限りなく韮生の里直販店とは関係なさげな遠い話を書いてしまいましたね。
でもさ、なんていうんですか色んなバックグラウンドを知る事によって、ちょっとでも香美市や香北町に興味を抱いてもらえたらなぁと、思っておりますのや。
なんかどっかの会社
「龍河洞の壺」のフィギュアとか
「鍾乳洞饅頭」とか
「物部川ドリンク」という名の青汁とか
「物部川と支流が交わった水」とか
「香美市のそこら辺にある落石」というオブジェとか
そんなん絶対に売れへんやんっていうのん商品化してくれへんかなぁ。。。。
と最後はやや壊れ気味な事を言い出しましたが、皆さんが知らない香美市をなんとか知ってもらいたいという気持ちから、今回も書かせてもらいました。
最近知ったのですが、1〜2名のファンは獲得できたようです。
うっしっしぃ
スタッフ 大阪出身の人
ほな!
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